豊橋祇園祭

豊橋祇園祭の日程と歴史

「三河国吉田名蹤綜録(天王社祭礼 花火)」
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「三河国吉田名蹤綜録(天王社祭礼 祭式)」

*「三河国吉田名蹤綜録」(江戸時代後期 個人蔵)は宝飯郡下地町の山本貞晨が文化年間(1804~1818)に著した吉田城下及びその周辺地域の地誌で、吉田天王社祭礼については見開き14枚の挿絵があります。
*祭式の挿絵はスクロールしてご覧頂けます。 

吉田神社例祭 豊橋祇園祭の日程

⑴祇園祭初日(7月第3金曜日)
手筒花火発祥の地として知られる吉田神社の例祭は通称「豊橋祇園祭」と呼ばれ、7月第3金曜日より3日間盛大に執り行われます。
初日の金曜日は、昼頃から各町による大筒・乱玉台の練込み(台物を担ぎ、町内を練り歩くこと)があり、午後4時頃には八ヶ町の台物が神社に集合します。午後6時より宵祭、手筒の清祓いが執り行われ、拝殿前にて奉賛会長や各町の代表による神前手筒が奉納されます。以降、境内西側の広場に場所を移し、手筒・大筒・乱玉・ようかん花火などが町毎に奉納されます。午後10時頃には終了です。桟敷席はございません、どなたでもご覧頂けます。


 奉賛会長による神前手筒奉納


⑵祇園祭2日目
翌土曜日は、昼頃より町毎に玉箱の練込み、午後6時より前夜祭が斎行され、神社北側豊川河畔において打上花火が奉納されます。1万発以上の花火が打ち上げられ、午後9時頃には終了致します。桟敷席についての問い合わせや申し込みは豊橋祇園祭奉賛会ホームページをご覧ください。
豊橋祇園祭奉賛会HPへ


 
⑶祇園祭3日目(例祭日)
翌日曜は、愈々本祭(例祭)です。午前10時より献幣使参向のもと、氏子による雅楽・浦安の舞が奉奏される中、例祭が厳かに執り行われます。
午後4時半には頼朝や饅頭配りなどの神役が神社に集合し、笹踊りの到着を待って午後5時頃には神輿が出発致します。神輿渡御は頼朝行列と呼ばれ、神輿を中心に行列をなして旧東海道沿いの氏子町内を巡り、御旅所である素盞嗚神社にて神事斎行の後、午後7時過ぎには吉田神社に戻って参ります。これを以て祇園祭は全ての神事・神賑行事を終了致します。


    頼 朝 行 列

   神 輿 渡 御


*手筒花火奉納がある金曜の前日(木曜日)には子供の笹踊りが氏子町内を巡ります。午後3時頃に萱町を出発し、各町の会所前・素盞嗚神社・吉田神社などで笹踊りを披露します。吉田神社へ到着するのは午後5時頃です。


  会所前での子供笹踊り

*祭礼期間中、御守や御朱印などは、午前9時頃より花火や神事が終了するまで授与致します(授与所は御殿向かって右側です)。
尚、期間中神社駐車場のご利用は出来ません。公共交通機関をご利用下さい。

 神社参道「手筒花火発祥の地記念碑」
         

豊橋祇園祭の歴史

⑴江戸時代の祭礼(天王社祭礼)
古くより花火祭としてその名を遠近に知られ、滝沢馬琴は羇旅漫録(きりょまんろく)において「吉田の今日の花火天下一」と称しております。かつては吉田城内天王社祭礼として陰暦6月13日より15日の3日間に渡り行われ、13日は本町を除く氏子各町それぞれの街路上より花火が放揚されました。
14日は吉田城下、東海道沿い本町の東西両端に山車(祭車)が引出され、車上では子供の舞や獅子舞が奏されました。本町の中央には吉田城主の桟敷が設けられ、建物、大筒、手筒、打揚、綱火等様々な花火が祭を彩りました。
15日の神輿渡御は、天文16年(1547)に今川義元が神輿を寄進している事からその歴史は古く、頼朝に扮した男児が神輿と共に騎馬にて進む姿から、頼朝行列とも呼ばれます。神幸行列に先立って吉田城内関屋小路に設けられた城主見物の桟敷の前では、駆馳の式(十騎が南北の馬場を3回駆けるもの)があり、笹踊りは踊り返し(往復3回)、饅頭配(まんじゅうくばり)と呼ばれる頼朝の家来は城主に挨拶し饅頭を配り、それぞれ神幸に陪従しました。先頭を進む笠鉾(かさほこ)は氏子町内外の寺院から8本出され、神輿を中心に行列をなして下社であり御旅所である御輿休天王社(今の新本町素盞嗚神社)へ神幸、神事斎行後、城内天王社へ還幸しました。
天王社祭礼は公給(藩の援助)42俵、御馬12疋や馬具馬丁等、吉田藩の厚い保護を受け、氏子町内のみならず藩の武家の祭でもあり、吉田の町全体の祭礼であったともいえます。

⑵廃藩後の祭礼
明治2年吉田神社に改称、吉田藩廃藩による公給廃止や神仏分離の結果、山車や寺院からの笠鉾、駆馳等は廃絶しましたが、獅子飾鉾や頼朝、乳母、十騎等は氏子各町によって引き継がれました。花火もその制令が厳しくなり、放揚場所は境内、豊川北堤、城東練兵場等、放揚日も陰暦6月13日、或は14日、或は両日と定めがない時期が続きましたが、明治30年に13日の夜手筒大筒を境内に、14日昼夜打揚を関屋川岸の水上にて放揚する事となり、以後定例となりました。明治42年より例祭は陽暦7月13日より15日と改められ、昭和44年より7月第3金曜日を基準日とする事となり、今日に至ります。

旧 式 祭 礼 図 (明治23年 畑在周 吉田神社蔵)

廃藩前の祭礼の情景が上下に分けて描かれています。下には陰暦6月14日、本町での山車や建物(立物)花火、大筒花火等、火垢離(ひごり)の式をうける笹踊の姿もあります。山車は上下2車あり、西を上の車、東を下の車と称し、廃藩以前は公給42俵の内22俵がその経費に充てられ祭儀中最も重視されました。上には15日の御神幸が描かれ、先頭の笠鉾から鼻高面(はなだかめん)、獅子頭(ししがしら)、神輿、笹踊、頼朝、乳母、騎馬(十騎)、最後に饅頭配がつづきます。左側には御神幸前に行われた駆馳の様子が描かれ、桟敷で駆馳を見る城主たちの姿も見えます。

花火の歴史と種類

         
「江戸時代の建物(立物)花火」

花火の歴史 ~花火はいつ頃から始まったのか~

19世紀中頃に編纂され、三河国の名所や歴史を挿絵と文章で解説した「参河国名所図会」の吉田天王社の項には「古老伝に云う 永禄元年(1558)天王社祭礼 花火と云事初る」とあり、この頃にはそのような古老の言い伝えがあったことがわかります。
又、吉田神社史には花火について「創始の年序明らかならず。但し慶安4年これを停めたる事あれば其の以前なるは推して知るべし」とあります。これは、江戸時代の吉田天王社の神主家が、3代家光から7代家継まで、将軍やその妻が亡くなった時の祭礼行事を中止したかどうかを書留めた「吉田天王社祭礼停止覚書」に、家光が死去した慶安4年(1651)には山車や花火などを中止したとの記録があるからで、花火がそれ以前より行われていたと考えることが出来ます。但し、花火の種類などについての記録はありません。
徳川幕府成立後、家康は強力な武器となる諸藩の鉄砲火薬の製造は厳重に制約しましたが、徳川発祥のここ三河においては、製造や貯蔵を奨励しました。その後、天下泰平の時代になるにつれ、三河武士の火薬の技術は民間にも伝えられ、悪霊や疫病を駆逐する火の力と天王信仰が結び付き、吉田藩の庇護のもと、吉田城内天王社祭礼の花火として発展していったと考えられます。

*吉田神社史は大正11年の縣社昇格を記念して山本松二によって編纂されました。山本松二は上伝馬町に生まれ、大正3年~7年まで豊橋市の助役を務められた方です。吉田神社史は神社や氏子町に残された記録や所蔵品、江戸時代を通じて吉田天王社の神主であった石田家が所蔵する記録や品々を基に戦国末期から大正11年までの記録や言い伝えをまとめたものです。
        

豊橋祇園祭の花火

⑴手筒花火(吉田神社境内)
火花を噴き上げる三尺ほどの竹筒(肉厚の真円に近い孟宗竹)を脇に抱えて出す勇壮な手筒花火は、豊橋祇園祭の初日、7月第3金曜日に吉田神社の境内にて奉納されます。手筒花火の製作は、6月上旬の竹取りに始まり、節を抜き、内側をやすりをかけて滑らかにする作業などが続きます。「かがみ」と呼ばれる木製の噴出口を取付け、縄を巻きます。通常、細縄と太縄で二重に巻きます。花火放揚の前日の夜に火薬を竹筒に詰め込みます。定められた分量の火薬を詰めたら、最後にハネを入れ、詰め物をし、かがみに奉納の為の化粧を施して完成です。自分が放揚する手筒は、竹取りから火薬詰めまで自らで行うのが原則です。
更に大きな筒に火薬を詰め、台に据えて町毎に放揚する大筒花火、短い竹に火薬を詰めて片手で放揚するようかん花火などもあります。

   鏡入れ後の竹筒    振込の様子

   ようかん花火


⑵打上花火(豊川河畔)
豊橋祇園祭の打上花火は年々盛大となり、午後7時から9時までの間に、1万発以上の花火が、清流「豊川」の北岸から打ち上げられます。その南岸には花火観覧用の桟敷席が設けられ、市民や観光客、合わせて数万人の観衆を魅了します。打ち上げられる花火は、スターマインをはじめとする各種仕掛け花火から、氏子自らの手による早打ち、単発の玉などが豊橋の夜空を彩ります。
打上花火は廃藩以前は東海道沿いの氏子各町それぞれの街路上で放揚され、明治11年以降、26年までは豊川北岸や軍の練兵場(現在の豊橋公園球場周辺)など、打上場所は固定されていませんでした。
明治30年より関屋河岸の水上に舟を連ねて、そこを打上場とすることになり、昭和44年に規則が改定されて、再び陸に上がるまで、祇園の打上花火は船より上げるのが伝統でありました。

  昭和初期 豊川水上の打上舟

        

廃藩以前の花火の種類

吉田神社史には、明治4年の吉田藩(豊橋藩)の廃藩以前の花火について以下のように記されています。
「花火の種目は流星(りゅうせい)建物(たてもの) 打揚(うちあげ) 手筒(てづつ) 大筒(おおづつ) 綱火(つなび)等あり。花火の用ひられしは流星手筒を初めとす。始め山車上に於て之を放つ。然れども其大なる者なし。次て建物綱火等用ひらるるも亦然り。建物の巨大となりしは元禄十三年(1700)にして手筒の雄大となりしは正徳元年(1711)なり。当時これを大筒といふ。後更に大なる者を製し之を台上に緊縛して以て放つ。然して大筒の名称 之に移る。手筒の中やや大なるものを大なしと呼ぶ」

廃藩以前、手筒や打揚花火は東海道沿いの氏子各町内の街路上で放揚され、建物花火と綱火、大筒花火は東海道本町の中央に設けられた吉田城主の桟敷前(城主不在の場合は老臣が代理)にて放揚されました。
建物花火については2基あり、東海道本町東側を本町、西側を上伝馬町が担いました。火光四方に散乱してその明るいこと真昼の如く、黒煙が消え去ると絵模様が鮮明に現れたと伝わります。元禄13年(1700)に巨大になったとあり、その長さ13間、幅3間半あったと記録されます。又、綱火は本町の南北両側に懸けられ、南は上伝馬町、北は本町に属しました。残念ながら、建物花火や綱火は明治中頃には廃絶し、現在は手筒花火と大筒花火は境内で、打揚花火は豊川河岸にて放揚されます。



*「御祭礼建物絵図」(吉田神社蔵)は宝暦12年(1762)から文政4年(1821)までの建物花火の図柄や大きさ、出来不出来などを記した2巻の記録です。建物花火だけでなく大筒や上げ物など他の花火にも触れています。宝暦13年の花火は長さ8間半(約15m)、幅3間半(約6m)で「つるひらきよりより外へ指出し」とあります。「ひらき」とは火が付いた時に観音開きに骨組みが開く仕掛けだと思われます。

         

東三河の祭礼に残る建物花火と綱火

江戸時代に吉田天王社祭礼で行われていた花火で、現在は失われている建物花火と綱火は、東三河の祭礼で現在も行われています。

 豊川市小坂井 菟足神社「建物花火」

 豊橋市指定文化財 豊橋市石巻本町 椙本八幡社「綱火」

         

地上に降りた筒花火と大筒花火の誕生(元禄~)

(1)地上に降りた筒花火
現在、手筒花火と言えば火花を噴き上げる三尺ほどの竹筒を脇に抱えて地上で放揚する勇壮な姿を思い浮かべますが、元禄(17世紀後半~18世紀前半)以前は、山車(くるま)の上でのみで放揚され、現在のように大きいものではありませんでした。
その頃の町民である上伝馬の鈴木玄団の手記によれば、筒花火は元来、上下の山車の上に於いてのみこれを放ち、大きいものではなかったが、元禄時代に本町の糀屋(こうじや)金兵衛の弟の小倉彦兵衛が初めて山車の上以外の場所(地上)に於いて皮羽織を着て大なしを放った。その翌年、今度は上伝馬町の山名屋彦兵衛はじめ3人が同じように地上で大なしを放ったと記されています。
また、江戸時代に笹踊りが出発する際に数十人の町内の者が笹踊りを取巻き手筒を発する「火垢離(ひごり)」についても、宝永3年(1706)に始まったと手記には記されています。
「笹踊に花火これなし。萱町平六、宝永三年初めて大なしだす。それより萱町、指笠町、同世古、魚町の者迄出す。」

*「大なし」について山本松二は「手筒の中やや大なるもの」「大放しの略」と解釈していますが、「大梨子」であり、一尺ほどの筒花火を竿竹の先につけたものであるという説もあります。

「吉田天王社祭礼花火に関する手記」     江戸時代 個人蔵

*「吉田天王社祭礼・花火に関する手記」は、上伝馬の鈴木玄団が元禄年間以降の天王社祭礼について、見聞き、体験したことを後年になって記したものを天王社神主が写したものです。18世紀前半の花火や笹踊りの変化について具体的に記されています。

(2)大筒花火の誕生
大筒花火についても同じく鈴木玄団の手記に「大筒之初り、正徳元年 天王町喜右衛門並び此方両人にて持はなす申候事大たわけ之事に候、そこぬけ候は相死可申候」などとあります。
正徳元年(1711)には玄団と天王町の喜右衛門により大筒が初めて揚げられました。6尺の長さの筒を2人で持って出したとのことです。爆発すれば死の危険があるほどで、老齢となった玄団は若き日の自分自身を「大たわけ」であったと懐古しています。この後、大筒は個人で放揚するのではなく、町毎に台に据えて出すようになったと考えられます。安永4年(1775)の祭礼の際には、本町・上伝馬・萱町・札木町の四町が大筒台付を揚げたとの記録があります。現在、手筒には孟宗竹が用いられますが、この頃はまだ無く、大きい筒は木筒であると考えられます。
このように、町毎に行う花火や祭礼から外れた非公式な形で、血気盛んな若者たちによって大きな花火を手に持って地上で放つという事が始まり、より大きな筒を台に据えて町毎に放つ大筒花火が誕生しました。現在の祭礼で放揚される、いわゆる「手筒・大筒花火」の原点はこの元禄の頃だと考えられます。


「三河国吉田名蹤綜録」山車と建物花火

山車の上での筒花火の様子

「三河国吉田名蹤綜録」大筒花火



        

幕末(慶應)の頃の花火と笹踊り

幕末の頃の祭礼記録によると、旧暦6月14日の本町での花火の放揚順は以下の通りです。

⑴昼頃~夕刻
上伝馬と本町はそれぞれ建物花火の地組みを始め、出来上がるのは夕刻頃。地組み始めと同時に東海道本町は人の往来が止められ、建物花火が出来上がった後は、この附近での花火が禁止となる。

⑵午後6時~9時
午後6時頃、笹踊りが火垢離の後、萱町を出発し、萱町・指笠町を経て午後9時頃には御輿休天王社(みこしやすみてんのうしゃ)へ入ります。

⑶午後9時~
本町中央の桟敷に城主が入り、本町役所より休憩が済み次第、本町へ入るようにとの仰せが笹踊りに申し渡されます。
これより直ちに笹踊りは御輿休社を出て、本町へ入ります。御輿休社を出る際には藩の役人が警固に付き、本町につめかけた見物人からは、笹踊りを見るや雷のような歓声が起こりました。

⑷笹踊り到着後(花火の始まり)
笹踊りは本町中央の涼み台に上り、建物花火を見物し、休憩をとります。
笹踊りが到着すると建物花火が点火する、つまり笹踊りの到着は花火が始まる合図でもありました。
【花火の放揚順】
⓵本町の建物花火(本町東側)
⓶上伝馬の建物花火(本町西側) それぞれ建物花火に点火すると直ぐに建物下の打揚花火を放つ
⓷大筒花火(本町中央) 本町・上伝馬・萱町・指笠町・御輿休町(御堂世古と隔年交代)・札木町の順(この順は定例にて変ることなし)
*御堂世古は今の三浦町
 大筒花火放揚の間々に綱火を放つ(綱火は本町の両側にかけられ、北は本町、南は上伝馬が担う)
⓸その他 手筒の多くは本町役所附近(本町中央)に設けられた放し台にて放揚され、笹踊りが通る際には笹踊りにも放つ
 花火は午後10時半~11時頃に終了

⑸花火終了後
笹踊りは吉田天王社へ入り、再び御輿休社へ入ります。ここで警固の役人は帰ります。この時はすでに午前0時頃でありました。
一方、本町と上伝馬は徹夜で建物花火や桟敷などの片付けです。道の清掃なども行い、日の出前には少しの花火の痕もないように片付け、本祭り(神輿渡御)に備えたそうです。手記の中では「道路は箒目鮮やかに散水清く、各戸口には簾を下し、全町至って静粛なり。この態度は実に人をして好感を起こさしむ」と記されています。



*この幕末の頃の祭礼記録は、弘化年間に生まれ、昭和初期に亡くなられた萱町の福谷籐七が、大正8年に自身が記憶していた幕末の祭礼の様子などを口述して孫に書かせたものです。明治元年には自らが笹踊りの役手をつとめた事なども記され、笹踊りを中心に花火や神輿渡御など祭礼期間の様子が詳細に記されています。

*「三河国吉田名蹤綜録」や「吉田天王社祭礼花火に関する手記」などは、平成31年に開催された豊橋市美術博物館の企画展「吉田天王社と神主石田家」の図録に掲載されたものを、美術博物館様の許可・協力のもと使用させて頂きました。   

頼朝行列・笹踊り

獅子飾鉾(札木町)と湯立飾鉾(三浦町) 

神輿渡御は頼朝に扮した男児が神輿と共に騎馬にて進む姿から、頼朝行列とも呼ばれます。
先頭を進むのは獅子飾鉾(獅子頭鉾)、札木町が担います。廃藩前は笠鉾(かさほこ)又は山とも呼ばれ喜見寺などの寺院より8本が出ました。吉田藩からの公給42俵の内16俵が充てられ山車(祭車)に次いで重視されました。
明治元年に廃され、代わりに獅子飾鉾・比礼鉾7本となり、明治3年より獅子飾鉾は札木町の所役となりました(平成29年新調)。
又、縣社(けんしゃ)昇格の翌年、大正12年には三浦町が湯立飾鉾を出すに至り、飾鉾は2本となりましたが、昭和20年の空襲により焼失、現在は獅子飾鉾と4本の比礼鉾のみとなっています。

            
「江戸時代の笠鉾 先頭は喜見寺の獅子笠鉾」
札木町獅子飾鉾
三浦町湯立飾鉾「大正の頃の写真」大筒台の後にみえるのが湯立飾鉾

        

鼻高面と獅子頭 

次に、太鼓・比礼鉾(ひれほこ)・軍配団扇(ぐんばいうちわ)・鼻高面(はなだかめん)・獅子頭・御幣持ち・花箱(賽銭箱)が続きます。
鼻高面は元々軍配団扇を携え、江戸時代、城主桟敷前は後ろ向きに歩きました。 面は延宝8年(1680)5月14日吉田城主小笠原長祐寄進(春日勘八郎作)と伝わります。現在でも神輿渡御で使用され、この面を顔にあててもらうと夏病みしないといわれます。
又、獅子頭は初代の神輿と同じく今川義元寄進と伝えられます。現在神輿に陪従するものの中では、最も古いものとされ、必ず南面して進みます。

「軍配団扇を携え緋の装束を着け後ろ向きに歩く鼻高面並びに頭上にかつがれる獅子頭」
「鼻高面」
「獅子頭」

        

神輿(八ヶ町青年)

次に神輿、神職、八ヶ町氏子総代、奉賛会役員と続きます。
天文16年(1547)に今川義元により造立された神輿は数十年を経て朽ち、寛永13年(1636)に吉田惣町を勧募して新たに造立されます。
以後、元禄13年(1700)、安永2年(1773)、嘉永5年(1852)、 明治32年(1899)、昭和32年(1957)に修補され現在に至ります。
古くより神輿を担ぐ輿丁は魚町衆によって担われました。これは今川義元が三河半島の片濱13里、伊良湖の岬から細谷を経て遠州新居宿に到る間の各村の魚は、必ず魚町を介さなければ売る事は出来ず、且つ公認で2分の口銭を取ってよいと許したという、特殊な関係から其奉仕の役を魚町に委ねたのに起因しています。魚町衆の奉仕は昭和40年代まで続きましたが、その役は氏子八ヶ町の青年により引き継がれ、町内を巡幸します。 

 「牛頭天王神輿棟札」天文16年 吉田神社蔵
今川義元の寄附により奉納された神輿に附属した木札であり、義元を補佐した重臣の雪斎崇孚(太原崇孚)の筆と伝わる。写しは明治43年に作成されたもの。
        

笹踊り(萱町・指笠町・三浦町)

次に笹踊りが続きます。
笹踊の創始は不詳ですが、正保2年(1645)に指笠町(さしかさまち)が大太鼓を新調したというのが最も古い記録です。寛文11年(1671)天王社祢宜鈴木重宗社例上申の記録、三州吉田天王御祭之事に「さゝおとり」の名があります。小太鼓2人、大太鼓1人で構成され、小太鼓は萱町(かやまち)、大太鼓は指笠町の所役です(三浦町は元々は笹踊り衆です)。

社史には「其服装の華美となりしは宝永元年(1704)にして以後益其度を進む。十三日の夜萱町在住の下祢宜 沼仁左衛門の家に会して其装儀を理し、下社(現:新本町素盞嗚神社)に至る。この時これ(笹踊)に向て花火を放つの式例(火垢離(ひごり)の式)あり。この式宝永三年に始まる」とあります。これは鈴木玄団手記に記されている事で、笹踊りの衣裳は元禄年間に浴衣から更紗、緞子となって、更に金入りとなるなど道具類が華やかになっていった事がわかります。また、当時の笹踊りの名人の名も残されています。

安政3年(1856)に衣装を新調した際には当時の城主松平信古及び城士より金2分2朱 銭5貫10文が寄附されたとの記録があります。
廃藩前は祭礼期間全てで行われ、浴衣に編笠をつけた囃方(はやしかた)大勢は笹踊歌を歌い、14日と15日は城吏の警衛がつきました。

明治元年に笹踊りの役手を務められた福谷籐七氏の記録には「笹踊り出るこの時、警固の者付く。警固は三つ道具城主御紋付提灯前に二つ、後ろに二つ、同心十四人。外に上り提灯とて御家中より笹に提灯をつけたる者も付従う。」とあります。
又、15日の城主桟敷前(関屋小路)については次の通り記されています。「役所より笹踊り休息所へ馬のり(馳駆)済の通知来ると笹踊り悟慎寺裏門より出て本社へ行き、城主物見の前にて往復三回、これを踊り返しといふ。この時城主より砂糖水を給せらる。両町警固の者まで一統なり。直に本社へ入り、本社にて土器団子を賜る。」
他に明治元年の記録として「明治元年六月十四日の夜、駿遠参三国総督 平松時厚 吉田城主大河内信古と共に花火を本町桟敷に観る。十五日又席を連ねて神幸を関屋桟敷に観る。笹踊りに命じて踊り返しを二反せしめ、特に金三百足を給す。当年笹踊りの役手福谷藤七、藤城千代作及び仙十なりといふ。」

現在、神輿渡御(頼朝行列)は吉田神社に笹踊りをはじめ神役が揃ったところから始まりますが、江戸時代は笹踊りが萱町を出発し、吉田天王社に到着するまでに様々な行事があり、笹踊りは天王社に入る直前に関屋小路に設けられた城主の桟敷前で笹踊りを披露するのが慣例でありました。廃藩後は本祭のみで行われ、火垢離は廃し、今は笹踊歌も歌われなくなりましたが、氏子町内を巡りながら踊を披露し、神輿の送迎を司ります。
        

子供の笹踊り(萱町・指笠町)

7月第3金曜日の前日には子供笹踊りが町内を巡ります。天保5年(1834)には指笠町が童笹踊大太鼓を造ったという記録があり、元々は旧暦6月8~11日までの4日間、下社より指笠町を経て萱町まで踊りました。
子供笹踊りは成長の後、選ばれて笹踊り役となる素養をつける為に始まったとされ、明治29年より祭礼前日の吉田神社社参の儀が始まり、今日まで続きます。

火垢離をとる笹踊り
「東海道 吉田(隷書版)歌川広重 豊橋市美術博物館蔵」
「笹踊り」
「子供笹踊り」

         

頼朝と乳母(関屋町と西八町)

次に頼朝と乳母です。
寛文11年(1671)天王社祢宜鈴木重宗社例上申の記録、三州吉田天王御祭之事として「やぶさめ御馬十二疋代々御城主様より御仕立罷遊候
同荷馬一疋町より仕立出し申候 計御馬十三疋御馬役人下社家六郎次郎」
とあり、御馬12疋が頼朝、乳母、十騎、荷馬1疋が饅頭配だと考えられますが、まだその名はみえません。
元禄末(1700年頃)の天王社神主石田正友手記の中では、「次によりとも 次に頼朝御乳母人 次に十人騎馬 ・・次にまんちう喰御前にて吉例御座候・・」とあり、独立した名が付いています。
廃藩前は頼朝・乳母の乗馬、馬具、馬丁は吉田城主が之を供したとされ、騎手は大抵城士之を奉すと社史にはありますが、三河国吉田名蹤綜録には「頼朝といふは氏子にかぎらず、15才以下10才迄の童、志願によりて何方のものにても云入の早き方相勤となり、其頼朝の出立といふは、金の風折烏帽子に真衣太刀を佩て馬上なり 頼朝の乳母てふもの綿帽子を被り緋のかいどりにて馬上なり、是も神願によりて勤とぞ」と記されています。明治4年の廃藩・公給廃止により一旦廃絶しますが、明治6年に旧城内の一部である関屋町と西八町が氏子となって後は、この二町の所役となり交互に之を奉仕、今日に至ります。

「頼朝の様子」
「乳母の様子」

         

十 騎(本町)

次に十騎です。
十騎の馬は吉田城主が附近農村を徴発し、之に馬具及び馬丁を併せて之を供したとされ、騎手については附近農民志願の者が勤めたとされます。
祭礼当日の馬宿は札木1戸、上伝馬9戸に分けられました。旧暦6月15日、神幸行列に先立って吉田城内関屋小路に設けられた城主見物の桟敷の前で駆馳(くち)の式があり、後、神幸に陪従しました。明治5年に一旦絶えますが、後に復興され本町の所役となります。但し、乗馬を止め徒歩にて神幸に陪従しました。大正12年大河内正敏より鞍10口、鎧10掛が寄附され、以後再び騎馬にて供奉する事になりましたが、昭和40年代頃には安全面や費用面により騎馬は廃止、現在は本町の子供により奉仕され、徒歩にて神幸に陪従します。

「十騎(祭礼前の駆馳(くち)の式)」

        

饅頭配と上怜会(上伝馬町)

行列の最後は饅頭配(まんじゅうくばり)です。
饅頭喰(まんじゅうくらい)とも呼ばれます。廃藩前は、15日まず田町神明(今の湊町神明社)へ参詣、饅頭を献納し、次に天王社へ参詣、同じく饅頭を献納しました。神幸に陪従し、城主見物の桟敷前に至ると「御免なりましょう 私頼朝家来 頼朝さきへ通られました 此所で昼べんとう致す」と申した後、城主13個、家老9個、中老7個、用人に5個饅頭を配り、「目でとう殿様益七十五万石御目でとうござる」と挨拶し、再び神幸に陪従しました(饅頭を藩主めがけて投げ、藩主の裃(かみしも)に当りしものを三方に載せ、之を食せば諸病全快すとの言い伝えもあります)。この饅頭を食べると厄除けになり、夏病みしないとされます。廃藩前は吉田驛問屋場より馬が供されましたが、明治2年に廃止、この年は吉田城主より馬が供されますが、翌年又廃止、明治3年より上伝馬町にて供するようになり今日に至ります。騎手(饅頭配)は廃藩前より上伝馬町の所役です。宝暦12年(1762)「上伝馬酒井信五郎 吉田町在を勧募して饅頭配の服飾7種を作る」とあり、天明2年(1782)には上伝馬鈴木仁八郎 伊藤庄十郎 佐原仙太郎の斡旋により、「饅頭配用ゆる所の道服を作り金襴を以て之を製す」とあります。以後数回上伝馬町民の斡旋により装束は新調されてきました。

原田圭岳「十二景図屏風」豊橋市美術博物館蔵

又、上伝馬町は楽も担います。大正10年の例祭にあたり楽を奏したのが 始まりで、以後恒例となります。上伝馬町の伶人の会「上怜会(じょうれいかい)」と呼ばれます。

祭礼日程

毎年7月第3金曜日が基準日となりますが、令和2年は規模を縮小し、日程も変更されました。
令和2年7月17日(金) 子供の笹踊りは中止です
令和2年7月18日(土) 手筒煙火奉納
奉賛会・各町の代表による神前奉納のみとします(境内規制・見学は出来ません)
令和2年7月19日(日) 午前10時 例祭 
 神輿渡御(頼朝行列)は中止です
天候等により花火や頼朝行列は日時を変更する場合がございます。ご了承ください。

今年度の詳細な日程、打上花火の桟敷、写真コンクール等につきましては、豊橋祇園祭奉賛会ホームページをご覧下さい

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