豊橋祇園祭

祇園祭の歴史

「三河国吉田名蹤綜録(天王社祭礼 花火)」
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「三河国吉田名蹤綜録(天王社祭礼 祭式)」

吉田神社例祭 豊橋祇園祭

吉田神社の例祭は通称「豊橋祇園祭」として知られ、7月第3金曜日より3日間盛大に執り行われます。古くより花火祭として其の名を遠近に知られ、滝沢馬琴は羇旅漫録(きりょまんろく)において「吉田の今日の花火天下一」と賞しております。かつては吉田城内天王社祭礼として陰暦6月13日より15日の3日間に渡り行われ、13日は本町(ほんまち)を除く氏子各町夫々の街路上より花火が放揚されました。14日は吉田城下、東海道沿い本町の東西両端に山車(祭車)が引出され、車上では児之舞獅子舞が奏されました。本町の中央には吉田城主の桟敷が設けられ、建物、大筒、手筒、打揚、綱火等様々な花火が祭を彩りました。
15日の神輿渡御は、天文16年(1547)に今川義元が神輿を寄進している事からその歴史は古く、頼朝に扮した男児が神輿と共に騎馬にて進む姿から、頼朝行列とも呼ばれます。神幸行列に先立って吉田城内関屋小路に設けられた城主見物の桟敷の前では、駆馳(くち)の式(十騎が南北の馬場を3回駆けるもの)があり、笹踊(ささおどり)は踊り返し(往復3回)、饅頭配(まんじゅうくばり)と呼ばれる頼朝の家来は城主に挨拶し饅頭を配り、夫々神幸(しんこう)に陪従(ばいじゅう)しました。先頭を進む笠鉾(かさほこ)(飾鉾)は氏子町内外の寺院から8本出され、神輿を中心に行列をなして下社であり御旅所である御輿休(みこしやすみ)天王社(今の新本町素盞嗚神社)へ神幸、神事斎行後、城内天王社へ還幸(かんこう)しました。
天王社祭礼は公給(藩の援助)42俵、御馬12疋や馬具馬丁等、吉田藩の厚い保護を受け、氏子町内のみならず藩の武家の祭でもあり、吉田の町全体の祭礼であったともいえます。明治の廃藩による公給廃止や神仏分離の結果、山車や寺院からの笠鉾、駆馳等は廃絶しましたが、獅子飾鉾や頼朝、乳母、十騎等は氏子各町によって引き継がれました。花火もその制令が厳しくなり、放揚場所は境内、豊川北堤、城東練兵場等、放揚日も陰暦6月13日、或は14日、或は両日と定めがない時期が続きましたが、明治30年に13日の夜手筒大筒を境内に、14日昼夜打揚を関屋川岸の水上にて放揚する事となり、以後定例となりました。明治42年より例祭は陽暦7月13日より15日と改められ、昭和44年より7月第3金曜日を基準日とする事となり、今日に至ります。

旧 式 祭 礼 図 (明治23年 畑在周 吉田神社蔵)

廃藩前の祭礼の情景が上下に分けて描かれています。下には陰暦6月14日、本町での山車や建物(立物)花火、大筒花火等、火垢離(ひごり)の式をうける笹踊の姿もあります。山車は上下2車あり、西を上の車、東を下の車と称し、廃藩以前は公給42俵の内22俵がその経費に充てられ祭儀中最も重視されました。
火光四方に散乱してその明るいこと真昼の如く、黒煙が消え去ると絵模様が鮮明に現れたと伝わります。元禄13年(1700)に巨大になったとあり、その長さ13間、幅3間半あったと記録されます。又、綱火(つなび)は本町の南北両側に懸けられ、南は上伝馬町、北は本町に属しました。
上には15日の御神幸が描かれ、先頭の笠鉾から鼻高面(はなだかめん)、獅子頭(ししがしら)、神輿、笹踊、頼朝、乳母、騎馬(十騎)、最後に饅頭配がつづきます。左側には御神幸前に行われた駆馳の様子が描かれ、桟敷で駆馳を見る城主たちの姿も見えます。

花火

         
「江戸時代の建物(立物)花火」

花火の歴史

「三河国古老伝」に「永禄元(1558)天王祭礼 祀ノ花火ト云事始ル」とあります。社史における花火についての最も古い記録は「慶安四年(1651)四月将軍徳川家光薨(こう)す 之に因りて六月例祭の日山車十騎及花火等皆之を止め只神幸を奉仕す」というものです。又「花火の種目は流星(りゅうせい)
建物(たてもの) 打揚(うちあげ) 手筒(てづつ) 大筒(おおづつ) 綱火(つなび)等あり 花火の用ひられしは流星手筒を初めとす 始め山車上に於て之を放つ 然れども其大なる者なし 次て建物綱火等用ひらるるも亦然り 建物の巨大となりしは元禄十三年(1700)にして手筒の雄大となりしは正徳元年(1711)なり 当時これを大筒といふ 後更に大なる者を製し之を台上に緊縛して以て放つ 然して大筒の名称 之に移る」とあり、手筒については「筒花火は元来両車上に於てのみ之を放ち 其大なるものなかりしが 元禄中 本町糀屋(こうじや)金兵衛の弟 小倉彦兵衛初めて山車以外において大なし(大放しの略:手筒の内やや大なるもの)を放つ 時に彦兵衛皮羽織を着して之を為すといふ 尋で其翌年に至り上伝馬山名屋与兵衛 芹売屋茂左衛門 薬師世古山三左衛門等之に倣ひ 遂に此年其雄大を致す」とあります。
又、慶應の頃(幕末)の祭礼状況(6月14日)として次の通り伝わります。笹踊が本町に到着して椽(たるき)台が出されると笹踊はこれに上り、見物旁休息します。
「これより本町建物 次に上伝馬建物 建物に点火すると直に建物下の打揚を放つ 建物終ると大筒を放す 昔は本町・上伝馬・萱町・指笠町・御輿休町(御堂世古と隔年交代)・札木の順にて皆本町役所前にて之を放す 後に大筒番を定め当番の者のみここにて放つことになれり この間々に綱火を放つ 綱火は本町の両側にて北は本町 南は上伝馬なり 綱火には車火釣し物毛懸物すとあり 手筒は多く本町役所附近に設けし放し臺(だい)にて放す 笹踊通る時は笹踊へも放しかく 今夜打揚は本町上伝馬両町しかり此等此の建物済次第出すなり 笹踊は大筒済次第上伝馬へ出 天王町を通り本社(吉田天王社)へ入る・・・
この夜上伝馬本町は徹夜にて建物あと片付け 本町お物見も取除け総て跡片付け 掃除より道直し迄天明迄には少しも花火の痕も無き様万端行届き 道路は箒目鮮やかに撤水清く各戸口には簾を下し全町至て静粛なり この態度は実に人をして好感を起さしむ」
廃藩に伴い明治5年から10年まで花火は廃し、明治11年に手筒及び打揚を復興、大筒も後に復興されました。明治25年を最後に建物花火と綱火は廃絶しましたが、仕掛花火の原点はこの建物花火であります。

頼朝行列・笹踊り

神輿渡御は頼朝に扮した男児が神輿と共に騎馬にて進む姿から、頼朝行列とも呼ばれます。先頭を進むのは獅子飾鉾(獅子頭鉾)、札木町が担います。廃藩前は笠鉾(かさほこ)又は山とも呼ばれ喜見寺などの寺院より8本が出ました。吉田藩からの公給42俵の内16俵が充てられ山車(祭車)に次いで重視されました。
明治元年に廃され、代わりに獅子飾鉾・比礼鉾7本となり、明治3年より獅子飾鉾は札木町の所役となりました(平成29年新調)。
又、縣社(けんしゃ)昇格の翌年、大正12年には三浦町が湯立飾鉾を出すに至り、飾鉾は2本となりましたが、昭和20年の空襲により焼失、現在は獅子飾鉾と4本の比礼鉾のみとなっています。

            
「江戸時代の笠鉾 先頭は喜見寺の獅子笠鉾」
札木町獅子飾鉾
三浦町湯立飾鉾「大正の頃の写真」大筒台の後にみえるのが湯立飾鉾

次に、太鼓・比礼鉾(ひれほこ)・軍配団扇(ぐんばいうちわ)・鼻高面(はなだかめん)・獅子頭・御幣持ち・花箱(賽銭箱)が続きます。鼻高面は元々軍配団扇を携え、江戸時代、城主桟敷前は後ろ向きに歩きました。
面は延宝8年(1680)5月14日吉田城主小笠原長祐寄進(春日勘八郎作)と伝わります。又、獅子頭は初代の神輿と同じく今川義元寄進と伝えられます。現在神輿に陪従するものの中では、最も古いものとされ、必ず南面して進みます。

「軍配団扇を携え緋の装束を着け後ろ向きに歩く鼻高面並びに頭上にかつがれる獅子頭」
「鼻高面」
「獅子頭」

次に神輿、神職、八ヶ町氏子総代、奉賛会役員と続きます。
天文16年(1547)に今川義元により造立された神輿は数十年を経て朽ち、寛永13年(1636)に吉田惣町を勧募して新たに造立されます。
以後、元禄13年(1700)、安永2年(1773)、嘉永5年(1852)、
明治32年(1899)、昭和32年(1957)に修補され現在に至ります。
古くより神輿を担ぐ輿丁は魚町衆によって担われました。これは今川義元が三河半島の片濱13里、伊良湖の岬から細谷を経て遠州新居宿に到る間の各村の魚は、必ず魚町を介さなければ売る事は出来ず、且つ公認で2分の口銭を取ってよいと許したという、特殊な関係から其奉仕の役を魚町に委ねたのに起因しています。魚町衆の奉仕は昭和40年代まで続きましたが、その役は氏子八ヶ町の青年により引き継がれ、町内を巡幸します。 

次に笹踊りが続きます。笹踊の創始は不詳ですが、正保2年(1645)に指笠町(さしかさまち)が大太鼓を新調したというのが最も古い記録です。寛文11年(1671)天王社祢宜鈴木重宗社例上申の記録、三州吉田天王御祭之事に「さゝおとり」の名があります。小太鼓2人、大太鼓1人で構成され、小太鼓は萱町(かやまち)、大太鼓は指笠町の所役です。
社史には「其服装の華美となりしは宝永元年(1704)にして以後益其度を進む 十三日の夜萱町在住の下祢宜沼仁左衛門の家に会して其装儀を理し下社(現:新本町素盞嗚神社)に至る この時これ(笹踊)に向て花火を放つの式例(火垢離(ひごり)の式)あり この式宝永三年に始まる」とあります。安政3年(1856)に衣装を新調した際には当時の城主松平信古及び城士より金2分2朱 銭5貫10文が寄附されたとの記録があります。
廃藩前は祭礼期間全てで行われ、浴衣に編笠をつけた囃方(はやしかた)大勢は笹踊歌を歌い、14日と15日は城吏の警衛がつきました。
明治元年に笹踊りの役手を務められた福谷籐七氏の記録には「笹踊り出るこの時、警固の者付く。警固は三つ道具城主御紋付提灯前に二つ、後ろに二つ、同心十四人。外に上り提灯とて御家中より笹に提灯をつけたる者も付従う。」とあります。又、15日の城主桟敷前(関屋小路)については次の通り記されています。「役所より笹踊り休息所へ馬のり(馳駆)済の通知来ると笹踊り悟慎寺裏門より出て本社へ行き、城主物見の前にて往復三回、これを踊り返しといふ。この時城主より砂糖水を給せらる。両町警固の者まで一統なり。直に本社へ入り、本社にて土器団子を賜る。」
他に明治元年の記録として「明治元年六月十四日の夜、駿遠参三国総督 平松時厚 吉田城主大河内信古と共に花火を本町桟敷に観る。十五日又席を連ねて神幸を関屋桟敷に観る。笹踊りに命じて踊り返しを二反せしめ、特に金三百足を給す。当年笹踊りの役手福谷藤七、藤城千代作及び仙十なりといふ。」
廃藩後は本祭のみで行われ、火垢離は廃し、今は笹踊歌も歌われなくなりましたが、氏子町内を巡りながら踊を披露し、神輿の送迎を司ります。
7月第3金曜日の前日には子供笹踊りが町内を巡ります。天保5年(1834)には指笠町が童笹踊大太鼓を造ったという記録があり、元々は旧暦6月8~11日までの4日間、下社より指笠町を経て萱町まで踊りました。
子供笹踊りは成長の後、選ばれて笹踊り役となる素養をつける為に始まったとされ、明治29年より祭礼前日の吉田神社社参の儀が始まり、今日まで続きます。

火垢離をとる笹踊り
「東海道 吉田(隷書版)歌川広重   豊橋市美術博物館蔵」
「笹踊り」
「子供笹踊り」

次に頼朝、乳母、十騎、饅頭配(饅頭喰)です。
寛文11年(1671)天王社祢宜鈴木重宗社例上申の記録、三州吉田天王御祭之事として「やぶさめ御馬十二疋代々御城主様より御仕立罷遊候
同荷馬一疋町より仕立出し申候 計御馬十三疋御馬役人下社家六郎次郎」
とあり、御馬12疋が頼朝、乳母、十騎、荷馬1疋が饅頭配だと考えられますが、まだその名はみえません。
元禄末(1700年頃)の天王社神主石田正友手記の中では、「次によりとも 次に頼朝御乳母人 次に十人騎馬 ・・次にまんちう喰御前にて吉例御座候・・」とあり、独立した名が付いています。
廃藩前は頼朝・乳母の乗馬、馬具、馬丁は吉田城主が之を供したとされ、騎手は大抵城士之を奉すと社史にはありますが、三河国吉田名蹤綜録には「頼朝といふは氏子にかぎらず、15才以下10才迄の童、志願によりて何方のものにても云入の早き方相勤となり、其頼朝の出立といふは、金の風折烏帽子に真衣太刀を佩て馬上なり 頼朝の乳母てふもの綿帽子を被り緋のかいどりにて馬上なり、是も神願によりて勤とぞ」と記されています。明治4年の廃藩・公給廃止により一旦廃絶しますが、明治6年に旧城内の一部である関屋町と西八町が氏子となって後は、この二町の所役となり交互に之を奉仕、今日に至ります。

「頼朝の様子」
「乳母の様子」

十騎の馬は吉田城主が附近農村を徴発し、之に馬具及び馬丁を併せて之を供したとされ、騎手については附近農民志願の者が勤めたとされます。
祭礼当日の馬宿は札木1戸、上伝馬9戸に分けられました。旧暦6月15日、神幸行列に先立って吉田城内関屋小路に設けられた城主見物の桟敷の前で駆馳(くち)の式があり、後、神幸に陪従しました。明治5年に一旦絶えますが、後に復興され本町の所役となります。但し、乗馬を止め徒歩にて神幸に陪従しました。大正12年大河内正敏より鞍10口、鎧10掛が寄附され、以後再び騎馬にて供奉する事になりましたが、昭和40年代頃には安全面や費用面により騎馬は廃止、現在は本町の子供により奉仕され、徒歩にて神幸に陪従します。

「十騎(祭礼前の駆馳(くち)の式)」

行列の最後は饅頭配(まんじゅうくばり)です。饅頭喰(まんじゅうくらい)とも呼ばれます。廃藩前は、15日まず田町神明(今の湊町神明社)へ参詣、饅頭を献納し、次に天王社へ参詣、同じく饅頭を献納しました。神幸に陪従し、城主見物の桟敷前に至ると「御免なりましょう 私頼朝家来 頼朝さきへ通られました 此所で昼べんとう致す」と申した後、城主13個、家老9個、中老7個、用人に5個饅頭を配り、「目でとう殿様益七十五万石御目でとうござる」と挨拶し、再び神幸に陪従しました(饅頭を藩主めがけて投げ、藩主の裃(かみしも)に当りしものを三方に載せ、之を食せば諸病全快すとの言い伝えもあります)。この饅頭を食べると厄除けになり、夏病みしないとされます。廃藩前は吉田驛問屋場より馬が供されましたが、明治2年に廃止、この年は吉田城主より馬が供されますが、翌年又廃止、明治3年より上伝馬町にて供するようになり今日に至ります。騎手(饅頭配)は廃藩前より上伝馬町の所役です。宝暦12年(1762)「上伝馬酒井信五郎 吉田町在を勧募して饅頭配の服飾7種を作る」とあり、天明2年(1782)には上伝馬鈴木仁八郎 伊藤庄十郎 佐原仙太郎の斡旋により、「饅頭配用ゆる所の道服を作り金襴を以て之を製す」とあります。以後数回上伝馬町民の斡旋により装束は新調されてきました。

原田圭岳「十二景図屏風」豊橋市美術博物館蔵

又、上伝馬町は楽も担います。大正10年の例祭にあたり楽を奏したのが
始まりで、以後恒例となります。上伝馬町の伶人の会「上怜会(じょうれいかい)」と呼ばれます。

祭礼日程

毎年7月第3金曜日が基準日となります *前日の木曜日には子供の笹踊りが氏子町内を巡ります(午後3時頃~)
毎年7月第3金曜日 午後4時頃  大筒練込(氏子各町より神社)清祓
午後6時 宵祭
午後6時30分頃 神前手筒奉納(拝殿前)
各町大筒・手筒・乱玉煙火奉納(神社境内)
翌土曜日 午前9時 新本町素盞嗚神社例祭
午後6時 前夜祭
打上煙火放揚(豊川河畔)
翌日曜日 午前10時 例祭 献幣使参向・浦安の舞奉奏
午後4時30分 神幸祭 神輿渡御(頼朝行列)
神前にて笹踊り、午後5時頃神社出発、氏子町内を巡り、新本町素盞嗚神社へ、
再び氏子町内を巡り吉田神社へ還幸します
天候等により花火や頼朝行列は日時を変更する場合がございます。ご了承ください。

今年度の詳細な日程、打上花火の桟敷、写真コンクール等につきましては、豊橋祇園祭奉賛会ホームページをご覧下さい

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