御祭神・御由緒・文化財

手筒花火発祥 吉田神社

「大正頃の社頭」
「現在の社頭」

御祭神 素盞嗚尊(すさのおのみこと)

創建については諸説ありますが、旧社家の文書(天王御縁起)には天治元年(1124)当地で疫病が流行した際、牛頭天王(ごずてんのう)を勧請し疫病退散を祈願したのに始まるとあります。源頼朝の崇敬殊に篤かったとされ、治承2年(1178) 頼朝 雲谷普門寺に在宿の折、御祈願の為名代鈴木新十郎元利をして参拝せしめ、後文治2年(1186)石田次郎為久また代参とあり、其の時二日市に天王社(後に下天王・御輿休(みこしやすみ)天王社 今の新本町素盞嗚神社)を建立したとあります。 牧野古白の今橋城(吉田城)築城後は御城内天王社・牛頭天王社、天保6年に正一位の神階を賜った後は正一位吉田天王社と称しました。
今川義元 酒井忠次 池田輝政 又、徳川幕府成立後も歴代の吉田城主により社殿の造営や修補がなされ、寛文2年(1662)吉田城主小笠原忠知(ただとも)による上下両社殿の造立、及び元禄13年(1700)久世重之による拝殿・廊下等の造立をはじめ文久2年(1862)松平信古(のぶひさ)による修補まで、新造営2回、修理14回皆吉田城主の造営によります。又、鳥居や手水盤等、同じく城主の寄付にかかるものも多く残ります。 現在の拝殿は明治17年に氏子八ヶ町の寄附により新造され、本殿は明治25年秋の台風による杉の倒木により大破したことから、翌26年同じく氏子に寄附を募り、名古屋古渡の匠大橋金次郎によって新造されたものであります。
室町時代には田畠十貫文を領し、今川義元は六貫百文の畠を加増、徳川家康は改めて三十石を寄進し明治に至るまで之を領有しました。 天保6年10月正一位の神階を賜り、明治2年3月吉田神社と改称、明治4年7月郷社、大正11年10月には縣社に昇格せられました。 戦後社格は廃止されましたが、現在も八ヶ町(本町・上伝馬町・萱町・指笠町・札木町・三浦町・関屋町・西八町)の氏神として、又手筒花火発祥の神社として崇敬されております。


「天王御縁起」 江戸時代 個人蔵



「正一位 宗源宣旨」天保6年 当社蔵

金柑丸稲荷社 城守護稲荷社

豊橋市美術博物館蔵「吉田藩士屋敷図」より

御祭神 宇迦之魂命

永正2年(1505)牧野古白が今橋城を築いた当時の本丸であったとされ、 後の吉田城本丸の東側の細長い地形を金柑丸(きんかんまる)といいます。
社伝には「金柑丸稲荷社は古白今橋城を築くの日勧請する所にして云々」「御城内鎮守稲荷大明神御社之事 御当城内鎮守にて御丸丑寅に御鎮座鬼門之守護之神社」とあり、正徳4年(1714)吉田城主松平信高(信祝)は社殿を修補し、此時正一位の神階を賜るとあります(棟札には上棟修補 参州渥美郡吉田城内正一位稲荷大明神社と記されます)。以後社殿の修補は吉田城主松平資訓(すけのり)、松平信復(のぶなお)、松平信明(のぶあきら)、松平信古によって四回なされ明治を迎えます。
明治11年大河内信古は吉田城内五ヶ所(二之丸 地方役所 三之丸 倉廩役所 藩校時習館)の稲荷社を金柑丸に合祀し、吉田神社境内に移しました。明治39年には日露戦役記念として社殿が造立され、明治42年には城守護(しろもりご)稲荷社が合祀されます。
城守護稲荷社は正徳3年松平信高が城内三之丸に勧請したとされ、明治4年社殿は川毛町佐野文右衛門邸内に移され、以後は旧藩士によって維持されます。数年を経て、それも信徒の減少により困難となったことから、信徒惣代和田八千穂などより吉田神社末社として移転をしたいとの願いを受けて合祀されたものです。
歴代の吉田城主は名君として知られる松平信明をはじめ幕府の要職を務めた事から出世 開運 の稲荷神として、 又、旧城内御丸鬼門守護の神社であることから方除けの神として広く信仰されております。

「豊橋公園内 金柑丸跡」
「稲荷社狐の額」吉田神社蔵 享保14年(1729)5月松平信祝(のぶとき)寄進

伊雑社(御鍬神社)

御祭神 伊佐波止美命 玉柱屋比女命 宇迦之魂命

もとは御鍬神社と称され明和年間(1764~72)に勧請されたとされます。
安永8年(1779)6月「札木七三郎猪右衛門 資を募りて末社御鍬社の雨覆を造る 葺くに瓦を以てす」。又、文化12年(1815)4月「氏子末社御鍬社を修補し且つ雨覆を作る 29日遷宮を行ふ」との記録が残ります。大正7年に末社御食社が合祀されました。

素盞嗚神社(輪潜り神社)

御祭神 素盞嗚尊

旧社家の文書に文治2年(1186)源頼朝の名代石田次郎為久により建立されたとあり、江戸時代になると城内天王社(現 吉田神社)を上社というのに対し下社・下天王と呼ばれました。天王社祭礼・神輿渡御の際には御旅所となることから、寛文年間(1661~1673)には御輿休天王(みこしやすみてんのうしゃ)と称され、其の鎮座地は御輿休町と称されるようになりました。
城内天王社と同様に歴代の吉田城主により社殿の造営や修補がなされ、安永8年(1779)に本町を火元とする大火により社殿が焼失した際も、天明4年(1784)には当時の城主松平信明により本殿・拝殿・廊下・鳥居等が再興されています。明治になると独立し無格社素盞嗚神社となり、昭和20年の空襲により社殿は焼失、戦後に再興されました。その際区画整理により現在の鎮座地に移りましたが、元は現在の場所より東にあり東西に長い境内地でありました。
「三河国吉田名蹤綜録」には輪潜り神事の様子が描かれており、現在は毎年7月31日に輪くぐり神事が斎行されることから、輪くぐりさんと呼ばれ、毎年多くの参拝者で賑わいます。
*駐車場はございませんので、公共交通機関をご利用いただくか、御車の方は吉田神社駐車場をご利用下さい。


 「三河国吉田名蹤綜録」御輿休天王社  輪潜祭礼


その他境内案内

石鳥居は延享3年(1746)吉田城主松平資訓の建立とされ、鳥居の扁額は明治3年に豊橋藩知事大河内信古(吉田藩最後の藩主)により寄進されたものです。「正一位吉田神社」其字信古自ら書する所です。

  • 影降石(ようごうせき)

    社史に「延宝元年(1673)6月9日吉田城主小笠原長矩(ながのり)鳥居を建つ 寛永十七年(1640)水野忠清が建つる所のもの 風災に罹(かか)りたるを以てなり 今回従前の木造を改めて石造とし其位置を南方六間に移す」とあります。その際、木鳥居附近の地中深く埋まる巨石が発見されました。御鬮(みくじ)による神託を受け、巨石はそのまま、石鳥居は位置を移して建立されました。石廻りには竹柵を設け注連をおろし、以後、影向石(ようごうせき)として大切にしたと伝わります(影向とは神仏が一時応現するとの意です)。
    延宝七年(1679)6月8日城主小笠原長祐(ながすけ)は影向石の竹柵を修め、又 貞享四年(1687)6月6日には竹柵を改修して石垣を造ると伝わります。また天降石(てんごうせき)との呼び名もあったようです。
    それより百五十年以上を経て、吉田上伝馬(かみでんま)の金物商夏目可敬(なつめかけい)が編著した三河国名所図絵には「鳥居より本社の方十歩許にあり 実に奇石にして諸人愛弄すへき面影あり いつの頃にや空かき曇りて霹靂雨雹と共に天より降しかば影降石と号す」と記されています。

  • 伝承三河伝統手筒花火発祥の地記念碑

    平成5年に手筒花火とその歴史を後世に伝える為に、氏子や手筒花火を愛する皆様並びに関係諸団体のご厚情とご協力により標示塔と共に建立されました。

  • 手水舎石盥盤

    享保元年(正徳六年 1716)吉田城主松平信高(信祝)寄進 「奉獻 盥盤 正徳六丙申六月 三州吉田城主 松平氏源信高」

  • 百花園跡(ひゃっかえんあと)

    関屋の百花園(吉田藩士中西建三が丹精したとされる花畑)は渡辺小華が名付けた明治の豊橋の名所でした。現在の結婚式ホールの辺りが小華の住居と伝わります。明治初期の豊橋文化人の集う風雅の地で豊川の清流に調和する自然美の豊かな名勝であり、玉屋という料亭もありました。明治43年には豊橋ホテル、現在は吉田会館が建っております。

  • 拝殿内扁額

    拝殿内「素戔嗚尊」扁額 文久元年(万延2年 1861)2月吉田城士倉垣長顕寄進 「神祇権大副卜部良義卿真蹟 万延二年辛酉二月倉垣長顕」

  • 神馬の図

    拝殿内「神馬の図」 享保14年(1729)5月松平信祝寄進 享保14年吉田藩主松平信祝は大阪城代就任と同時に浜松に転封となり、吉田城を去るに臨み4月に金15両を天王社に寄進、5月には上下両社に絵馬(共に曽我紹叔画)を献じました。 下社(現新本町素盞嗚神社)の絵馬は空襲で社殿と共に焼失したことから、残るは今現在拝殿に懸かる1枚のみであります。

  • 八岐大蛇退治図

    拝殿内「八岐大蛇退治図」 昭和4年当社氏子 指笠町福澤儇雄画

    福澤儇雄氏については、豊橋市高洲町「人形の福澤」ホームページ 「福澤物語」をご覧下さい。

    人形の福澤

その他にも、今川義元寄進神輿棟札、松平資訓寄進鈴、松平信明寄進幟旗、松平伊豆守家 家紋入馬具などを所蔵 又、江戸時代から明治期までに豊橋地方で活躍した画家である恩田石峰、稲田文笠の額や、原田圭岳の軸なども所蔵します。

豊橋市指定文化財

令和3~6年にかけて「旧式祭礼図絵馬」が豊橋市の民俗文化財に、「獅子頭」「鬼面」「神輿棟札」「獅子一対」「獅子・狛犬一対」「馬具(鞍・鐙)附馬具一括」が有形文化財に指定されました。


   獅子一対  鎌倉時代

この獅子一対は鎌倉時代作の木造であり、頭体を通して一材より木取りし、体部中央から左右に割り内刳りを施した割矧(わりはぎ)造の像です。 面貌に迫真性があり、胴部の絞られた体形や引き締まった筋肉表現などから鎌倉時代の作と考えられるとのことです。現在は素地を呈し、別材を寄せた足先や後脚の両側面と尾部は亡失し、上顎部分は欠損しています。尚、阿形(あぎょう)像の内部には判読不明の墨書が残ります。

   獅子・狛犬一対  南北朝~室町時代

この獅子・狛犬一対は木造であり、主な頭体を前後三材で構成し、面部や足先などを別材としています。重量感ある筋肉表現でありますが、胴部の絞りは緩く、形式化した足首の巻毛表現などから南北朝~室町時代の作と考えられるとのことです。現状では錆下地や金箔等は剥落し素地をあらわにしています。ただ、錆下地や金箔は部分的に残存し、錆下地の下にそれ以前の漆箔が見える部分もあり、狛犬については頭部の角と尾を亡失しています。

   獅子頭  南北朝~室町時代

今川義元の寄附と伝わります。東三河地方の平野部では多くの祭礼に獅子頭が参加しており、神聖視される為、行列の露払いや御神体として行列の中心を占めるものがあります。当社では現在も神輿渡御(頼朝行列)に同行し、常に神輿の前にあって南を向け続けるという決まりがあります。
また、獅子頭をのせる台は万治3年(1660)に造られたという墨書があり、これからも獅子頭の古さがわかります。

   吉田神社旧式祭礼図絵馬    明治23年 畑在周筆

東海道本町で花火が行われていた幕末~明治初年頃の様子を再現したもので、下部に祭礼の花火の様子、上部に翌日の神輿渡御(頼朝行列)が描かれています。旧吉田藩主家の大河内信好以下350名ほどの寄付者名を記した「吉田神社旧式祭礼図寄附人明記」も残されています。この度同じく指定された「獅子頭」が現在と同じく神輿の前を進む様子も描かれています。

     鬼  面   室町時代頃

額の上下に2本の角をあらわし、眉を吊り上げ、牙を下から上へ左右に出す鬼面です。納入箱の蓋に今川義元の寄附と伝えられる墨書があり、当社と同じく吉田城内社である安久美神戸神明社の鬼祭で使われた古面と同じような追儺の儀式で使用されたものと考えられます。現在、祭礼では使用されておりません。

   牛頭天王神輿造立棟札 天文16年(1547)

今川義元の寄附により奉納された神輿に付属した棟札(木札)で、義元を補佐した重臣の雪斎崇孚(太原崇孚)の筆と伝わります。この札は「参河国名所図絵」などに収録され古くから知られていました。写真の棟札写は明治3年に作成されたものです。またこの他に寛永13年(1636)の神輿造立棟札と勧進棟札、元禄13年(1700)の神輿修復棟札、嘉永5年(1852)の神輿修復棟札もあわせて文化財に指定されました。これらの棟札は当社の神輿についての造立や修復の情報を記したものであり、戦国時代から江戸時代の吉田の様子を知る事の出来る貴重な資料でもあります。又、建物ではなく神輿についての棟札は大変珍しいとのことです。

   馬具(鞍・鐙)附 馬具一括 室町~江戸時代

馬具群は、大正時代に旧吉田藩主の大河内松平家から吉田神社へ寄付されたもので、天王社祭礼(現豊橋祇園祭)の神輿渡御(頼朝行列)で頼朝に付き従う「十騎」の再興を目的としました。馬具は漆塗りのほか蒔絵や螺鈿、象嵌などで豊かに装飾され、大河内松平家の家紋(三ッ扇紋)も施されています。