その他にも、今川義元寄進神輿棟札、松平資訓寄進鈴、松平信明寄進幟旗、松平伊豆守家 家紋入馬具などを所蔵
又、江戸時代から明治期までに豊橋地方で活躍した画家である恩田石峰、稲田文笠の額や、原田圭岳の軸なども所蔵します。
豊橋市指定文化財
令和3~6年にかけて「旧式祭礼図絵馬」が豊橋市の民俗文化財に、「獅子頭」「鬼面」「神輿棟札」「獅子一対」「獅子・狛犬一対」「馬具(鞍・鐙)附馬具一括」が有形文化財に指定されました。獅子一対 鎌倉時代
この獅子一対は鎌倉時代作の木造であり、頭体を通して一材より木取りし、体部中央から左右に割り内刳りを施した割矧(わりはぎ)造の像です。 面貌に迫真性があり、胴部の絞られた体形や引き締まった筋肉表現などから鎌倉時代の作と考えられるとのことです。現在は素地を呈し、別材を寄せた足先や後脚の両側面と尾部は亡失し、上顎部分は欠損しています。尚、阿形(あぎょう)像の内部には判読不明の墨書が残ります。
獅子・狛犬一対 南北朝~室町時代
この獅子・狛犬一対は木造であり、主な頭体を前後三材で構成し、面部や足先などを別材としています。重量感ある筋肉表現でありますが、胴部の絞りは緩く、形式化した足首の巻毛表現などから南北朝~室町時代の作と考えられるとのことです。現状では錆下地や金箔等は剥落し素地をあらわにしています。ただ、錆下地や金箔は部分的に残存し、錆下地の下にそれ以前の漆箔が見える部分もあり、狛犬については頭部の角と尾を亡失しています。
獅子頭 南北朝~室町時代
今川義元の寄附と伝わります。東三河地方の平野部では多くの祭礼に獅子頭が参加しており、神聖視される為、行列の露払いや御神体として行列の中心を占めるものがあります。当社では現在も神輿渡御(頼朝行列)に同行し、常に神輿の前にあって南を向け続けるという決まりがあります。
また、獅子頭をのせる台は万治3年(1660)に造られたという墨書があり、これからも獅子頭の古さがわかります。
吉田神社旧式祭礼図絵馬 明治23年 畑在周筆
東海道本町で花火が行われていた幕末~明治初年頃の様子を再現したもので、下部に祭礼の花火の様子、上部に翌日の神輿渡御(頼朝行列)が描かれています。旧吉田藩主家の大河内信好以下350名ほどの寄付者名を記した「吉田神社旧式祭礼図寄附人明記」も残されています。この度同じく指定された「獅子頭」が現在と同じく神輿の前を進む様子も描かれています。
鬼 面 室町時代頃
額の上下に2本の角をあらわし、眉を吊り上げ、牙を下から上へ左右に出す鬼面です。納入箱の蓋に今川義元の寄附と伝えられる墨書があり、当社と同じく吉田城内社である安久美神戸神明社の鬼祭で使われた古面と同じような追儺の儀式で使用されたものと考えられます。現在、祭礼では使用されておりません。
牛頭天王神輿造立棟札 天文16年(1547)
今川義元の寄附により奉納された神輿に付属した棟札(木札)で、義元を補佐した重臣の雪斎崇孚(太原崇孚)の筆と伝わります。この札は「参河国名所図絵」などに収録され古くから知られていました。写真の棟札写は明治3年に作成されたものです。またこの他に寛永13年(1636)の神輿造立棟札と勧進棟札、元禄13年(1700)の神輿修復棟札、嘉永5年(1852)の神輿修復棟札もあわせて文化財に指定されました。これらの棟札は当社の神輿についての造立や修復の情報を記したものであり、戦国時代から江戸時代の吉田の様子を知る事の出来る貴重な資料でもあります。又、建物ではなく神輿についての棟札は大変珍しいとのことです。
馬具(鞍・鐙)附 馬具一括 室町~江戸時代
馬具群は、大正時代に旧吉田藩主の大河内松平家から吉田神社へ寄付されたもので、天王社祭礼(現豊橋祇園祭)の神輿渡御(頼朝行列)で頼朝に付き従う「十騎」の再興を目的としました。馬具は漆塗りのほか蒔絵や螺鈿、象嵌などで豊かに装飾され、大河内松平家の家紋(三ッ扇紋)も施されています。